修了生の体験談、それぞれの回復 Vol.3

RD(リカバリー・ダイナミクス®)プログラム修了生、それぞれの回復の物語をご紹介します。

居場所

アルコール依存症 Kさん

 私は入院中の体験通所を経てから2年間RDに通所させて頂いたアルコール依存症者です。入院当時、私は20代で体力を持て余し、入院生活に物足りなさを感じており、強い焦燥感を抱いていました。そんな私を見るに見兼ねた主治医からRD通所の打診を受け、体験通所を決意致しました。主な動機は冷やかしも含んだ利用者への興味でしたが、幼少期から漠然と感じていた生き辛さの理由や解決策を知ることが出来るかもしれないという期待もありました。体験当日、期待していた答えは得られず、刻々とプログラムが終わり近づくにつれて希望も薄れていきました。しかし、最終プログラムのクロージングで利用者から思いがけないメッセージを頂きました。「今日見学に来た仲間も苦しんでいるのが分かるから、是非回復の道を歩んでほしい」。ストレートなメッセージがとても嬉しく、胸の奥が温かくなりました。自分の居場所が見つかったと思い、退院してからの通所を決心致しました。

 しかしながらそう簡単には人は変われません。ましてや私のような正真正銘のアルコホリックは心の奥底に対して、何度も根気よく働きかけなければ変わっていかず、すぐに元に戻ってしまいます。思い返せば、入院した動機も現実から逃げるための口実作りであり、決して無力を認めたものではありませんでした。私の最も大きな問題は「お金」で「お酒」は問題ではあるものの自分の力だけでどうにかなる。お金さえ稼ぐことが出来れば、一発逆転が叶い、全てが解決するはずだと問題の本質を大きく見誤っていました。何としても入院中に自分のスキルを磨き、高収入の会社に転職して、周囲を見返してやろう。その凝り固まった考えにRDに通所し始めてからも暫くは支配されていました。心の奥底、根本、魂に響く経験が必要だったのだと思います。

 通所して3カ月が経過した頃、魂を揺さぶられるような体験が与えられました。それは別居している妻と子供達に会った際に起こりました。もう二度と大切な人を傷つけないと誓ったのにも関わらず、私の過剰なプライドによって、私を含めその場にいた全員が傷つき、苦しんでいる現実を目の当たりにしました。ただ飲まないだけでは何も変わらず、自分の力だけではこの問題は解決できないと心底思いました。初めて無力を認めて、担当スタッフに相談しました。その時に担当スタッフから頂いた言葉が私の信念となりました。「たとえ家族と二度度会えなくなってもあなたが飲まないで生きていくこと、これが”第一のことは第一に”です。自分を大切に出来ない人が他者を大切に出来ますか?自分を愛せない人が他者を愛せますか?」妻と子供達とは会わず、連絡もしない。距離を取ることを決心致しました。まずは自分の回復に専念する。この決断が妻や子供達を傷つけることになり、二度と会えないかもしれないと思うと胸が張り裂けそうになりましたが、一緒にプログラムに取り組む仲間の姿から勇気を貰い、真実から逃げずに行動に移せました。それからプログラムに真剣に取り組むようになり、スポンサーに出会い、ホームグループを決めて、ステップワークを実行しました。上司への埋め合わせを経て、転職ではなく休職していた会社に復職へと気持ちが変化していきました。つい先日、元居た職場で飲まずに1年間業務を全うすることが出来ました。妻や子供達とは別居はまだしているものの週末に会うことを再開しており、少しずつですが新しい関係を構築出来ている気がします。通所前には想像もしなかった今の自分がいます。変えられるのは自分だけ、その自分ですら自分の力だけでは変えられないのだと思います。ご支援頂いたRDに心から感謝しております。これからも”第一のことを第一”に生きていくなかで、頂いたものを生かして家族や社会に貢献していきたいと思っております。

健康な心

薬物依存症 Fさん

 私には10年の薬物使用歴があり、3回の逮捕歴があります。3回目の逮捕で起訴、執行猶予付き判決が下されました。その後、薬物を気合いと根性で使用しませんでした。しかし、我慢は続かず執行猶予中にも関わらず薬物を再使用しました。会社を無断で1ヶ月欠勤、連続使用が止まらなくなりました。「辛いのに辞めれない。死んでもいい」と感じました。違法薬物に手を出した時、抵抗はありませんでした。逮捕された芸能人が健康そうに見えたからです。世間で刷り込まれている「人間辞めますか?」という状態は想定外でした。

 結果、どうにも立ち行かなくなり依存症専門病院に入院し、嫌々ですがRDに見学・体験に行き、「ここならば相性が合いそう」。そう感じ、利用させて頂きました。

 最初に驚いたのは、“依存症は不治の病で気合いと根性では使用を止めることは出来ない”という事。RDで多角的に依存症からの回復を学ぶことになりました。RDのプログラムの特徴は、「座学」と「ミーティング」で構成されている事です。座学では依存症についての知識と依存症をどう乗り越えてゆくか、回復への12ステップを講座と実践に分けて学ぶスタイルでした。私にはこのスタイルが合っていました。

 気合いと根性で薬が止まらないなら、どうすれば良いのか。それを実行する為には生活の中で何を実践してゆくのか。同じ依存症患者であるスタッフが講師だった為、彼らの境遇や回復への旅路に強い共感を持ち、心境の変化が起こってきました。しかし、依存症の回復に欠かせないプログラムを実践するが困難で、何度も躓きました。

 薬を使う原因となっている“己の性格の欠点”を炙り出す。そこにある、人生に齎すネガティブな側面を把握し、180°ポジティブに変化させてゆく必要がある。一番難しい点だと今も日々感じています。違法薬物に手を出す、という事は「健康な心」では表出しません。生まれつき、不健康な心が備わっていることが原因の一つです。「不健康な心」に向き合い、性格を変えてゆくことは難しいことです。

 しかし、担当スタッフがマンツーマンで私の「不健康な心や性格」の特徴を見出し、対処の実践を導いてくれた為、「健康的な薬物に手を出さないで済む不健康な性格の変化」を起こしたい。そんな目覚めが起こったのです。

 「ミーティング」では、同じ依存症を抱えた仲間と、それぞれが抱える悩みを吐き出し、仲間の話に傾聴、共感し、一人では無いことに気づかせて貰いました。同性愛者である私が、幼少期から漠然と感じていた「生まれてこなければ良かった」という点に関しても仲間は快く話を聞き、承認してくれたのです。

 RD通所前は、「他人が私に対し不快な事ばかりしてくる。薬物で気分を晴らそう」という思考がありました。しかし、世界で私のみが辛い訳ではないし、他人を攻撃する事への非生産性に気がつきました。今では、生活を取り巻くちょっとした事に幸せや感謝の念を持てる様になり、無色だった世界が色彩あふれるものとなり、心にポジティブな機微があると喜びを与えてくれます。薬を使わなくても。その生活を保つには、「健康的な心が必要であり、常に内省し、物事への捉え方と対応策を実践する」一日で良い。その積み重ねが、大きな変化になる、そう信じて止みません。正直、山あり谷あり、感情が葛藤する日は毎日発生します。しかし、薬に頼らない一日が如何に素敵な日となるか学べた事はRDのお陰です。依存症から抜け出したい、そう感じている瞬間から心に変化が起きているはずで、RDは非常に有効な場所です。是非門戸を叩いてみて欲しいです。変化を得ることが出来る場所だと確信しています。

今日一日

ギャンブル依存症 Mさん

 ギャンブルをする事が自分の唯一の日常といっても過言ではない人生を、18歳頃から過ごしてきました。常に、経済的に不公平で不平等な世の中への不満と、成功者への恨みと、又そういった人達と自分を比較して、勝手に情けなさを感じては、それをあたかもギャンブルをする正当な理由と自分に言い聞かせて常に生きてきました。

 今思うとその頃から、自分本位で自己中心的で、心が不健康で、自分の深い所にある良心・スピリチュアルな部分が病んでいたんだなと思います。又、昔からの思い込みで、自分は運が強い人間で、常に「なんだかんだいって、必ず自分は何とかなる。」となんの根拠も確信のない妄想を抱いて生きてきました。子供の頃よくくじ引きや懸賞に当選するという事があって、家電、ゲーム、りんご1箱、スーパースターのサイン入りボール、旅行券など多くの景品を得たのも事実ですが、結局こういった偶然を自分の力とか、自分には運があると過信していった要因の1つでもあると思います。ギャンブルを覚える前の話なので、人生の底つきとかは無かったですが、プログラムで学んだ賭け事に対する身体のアレルギーは昔からあったのだと今は感じています。

 さらにスピリチュアル(自分の心の奥底)に病んでいった大きな時期は中学校時代の成功体験にあると自分は今感じています。部活面では、姉の影響で小学生から始めたバスケットボールで最初は仕方なくのつもりだったのが、段々楽しくなり、個人として実力もつきチームの中心選手となり活躍の機会も増え、又チームとしても勝ち進むようになり地区大会→県大会→ブロック大会→全国大会と上の大会に勝ち進む経験をしました。学校生活では中学1年生の担任の先生から生徒会に立候補しないかと声をなぜかかけられ、これも最初は仕方なく引き受けました。無投票当選でした。学年で唯一の生徒会役員になり、周囲の人たちから評価の声をかけられるうちに気持ちも高ぶり、中学2年生の時も副会長をすすめられ、この時はもうこのまま生徒会に居続けたいという気持ちが強くなり再度立候補しました。この時だけが対立候補がいて、実際に選挙が行われました。当選しました。この後はもう出来レースでした。中2の後期と、中3の前期無投票当選で、2期連続で生徒会会長の役に就きました。地方都市の小規模な学校だったとはいえ、全校生徒約400人の生徒の中で400分の1に選ばれ、周囲から過度に評価され私は完全に、そして急速に”病んで”いきました。ここから、高校→大学と進学していきますが、中学校時代の自分にとっての栄光に囚われ、生き続けていきました。段々と自分の生きていく世界が大きく、広くなるにつれて現実を突きつけられました。学業にしても、スポーツにしても自分より優れている人がごまんといる事実を突きつけられました。   依存症者は、現実、現在を生きる事が出来ないとRDで学びました。本当にその通りだと思います。過去に囚われ苦しくなります。こんなはずじゃなかったと。未来に不安を感じて苦しくなります。苦しくなってギャンブルをしてきました。ギャンブルをし続けてきました。お金さえあれば、お金さえあればと信じ続けて生きてきました。結果として、両親、祖母、叔母、妻の家族をはじめ、職場の同僚、友人、恋人などの知人に繰り返し嘘をついて、お金を援助してもらいギャンブルをし続けてきました。現状は悪くなる一方でした。自分の中でどうにもならなくなり仕事もいけなくなりました。よくわからないままRDに通うことになりました。本格的に通所してからもすぐ1年ですが、今まで信じ続けてきた考え、価値観を手放したい。新しい生き方をしたい。苦しくてもギャンブルなしで、その苦しみや壁を乗り越えたい。現在そのような気持ちで、過去でも未来でもなく”今日一日”という新しい考え方で、仲間の中で生活させていただいております。

新しい生き方

買い物・浪費・借金依存症 Kさん

 子供のころから言いたいことが言えず、大人しくて気が利く良い子と言われながら大人になりました。厳しい実家を離れ、大学に入ってから覚えたお酒は、私を陽気に変えてくれました。そんな時夫に会いました。夫の学歴、職業を聞いて両親の大反対を押し切り、26歳で結婚をしました。その3か月後に交通事故に遭い、その時に脳神経外科の医師から不安神経症という診断を受け安定剤を飲み始めました。

 30歳で長女が生まれた時、夫のギャンブルによる借金が発覚。青天の霹靂でした。家に顔に傷のある人が急に取り立てに来るのかと思うと、恐ろしくて夜も眠れませんでした。大反対の末に結婚したため、両親にも姉弟にも何を言われるか怖くて相談できませんでした。私は両親が持たせてくれた持参金150万円を夫に言われるまま渡し安心できると思ったのですが、これが借金地獄の始まりでした。病気がちな次女が卒園を迎えるころ、夫にまた数百万の借金を打ち明けられ、仕方なく両親に話しお金を出してもらいました。私はこの時、ホッとしながら罪悪感も抱え、両親に「そら見たことか!」と言われている気がしました。その後夫と自分の両親に数回借金の肩代わりしてもらい、その度に罪悪感と自己憐憫が強くなっていきました。

 その後、母の言いつけ通り、ある出版社の広告営業に就きました。プライドが高い私は、頭を下げる営業の仕事にストレスを抱え、それでも1か月40万円前後稼ぎました。この時からワーカーホリックにもなり、仕事やお金を稼ぐことに夢中になり、次女はまだ小3だったというのに子供たちのことは二の次でした。これまでにない収入に有頂天になり、毎晩のように飲み歩いていました。お酒が入ると気が大きくなり皆に奢るので、翌朝お財布はスッカラカンになることも度々ありました。手持ちのない私は飲んだり食べたりする度にキャッシングを繰り返していきました。お金を借りる度「夫があれだけ使ったんだから…」と自分を正当化していました。私は働いて借金さえ返せば楽になると考えながら、やっていることは借金の繰り返しでした。長女が中3の夏に仕事や家庭を投げ出し、自分の現実から逃げてインドに行ったことがあります。私は辛くなるといつも現実から逃げていました。そして追い込まれると夫が更生すればいいんだと夫を責めました。その後やり直そうと何回か転職をしましたが、ストレスから浪費をしては借金が返せなくなり、父に返済してもらいました。父の「俺を当てにするなよ」の言葉にムッとしたこともありました。

 そんな父が亡くなり、長女は留学して次女は結婚、夫は仕事で単身赴任となり、私は一人で暮らすようになりましたが53歳で始めたマラソンに夢中になり飲み会、地方遠征と忙しくて寂しくはありませんでした。シルクにもはまり、数万円の洋服を毎月買っていました。60歳を過ぎたころ年齢が気になり営業職に見切りをつけ、62歳で転職した職場は女の職場で辛い日々でした。いじめにあい毎日怖くて、月々の返済も苦しくまた現実から逃げたい気持ちになりました。そんな時、夫が借金があると言ってきたのです。もうアップアップでした。初めて私は「これ以上もう無理」となったのです。本当に、どん底でした。

 そして2016年5月に自助グループに繋がりました。自助に繋がり7年。薬もお酒も借金も止まりました。それどころか貯金もあります。RDに通所して1年5か月が経ち、現在71歳。恐れから発して、これまで私はマイナス感情ばかり引きずって生きてきたことを実感しています。やる気、正直さ、開かれた心がどんなに「心の落ち着き」に繋がるか気づけるようになりました。RDに来たからこそ気づくことが出来るようになったと感じています。今、改めて振り返り、私は仲間の中で回復できたと実感しています。

やりたくないことをやる

共依存症 Tさん

 家族会に行ったことをきっかけに、スポンサーシップをお願いして12のステップについて学びました。

 「依存症の家族は共依存」とスポンサーから教わり、相手をコントロールしない、尻拭いは本人の為にならない、距離を取っていく他、少しずつ実行していきました。実行していく中で心の空間が生まれ、それを埋める為にワーカーホリックになり、最後は電車に乗れず出社出来なくなりました。今振り返ればこのからくりなのだと思うけれど、その時には全く分からず、何故こんなになってしまったのだろう、出勤できない自分を責め、三カ月の殆どの時間を布団の中で過ごしていました。

 ふとその時に去年の夏に1日セミナーに参加したRDを思い出し、連絡して通所することになりました。

 その頃の自分は底付きという意識はあまりなく、セッションの分かり易さに感動し、ここで一生懸命やればなんとかなるかもしれないという希望を持ちましたが、自分の問題の本質はさっぱりわからない状況でした。他アディクションの方たちの分かち合いを聞いたり、ミーティングに参加したりしていく中で、自分の事が少しずつ理解できるようになってきました。幼少期に病弱だった兄にかかりきりだった母の手を煩わせないよう手のかからない子を演じていたこと、自分の事は自分でしなきゃと背伸びをして我慢していたACの部分や、自分を見る事が辛いために人の事に注意を向け、その結果、人との境界線を上手く引けず他人軸で考える傾向を認識していきました。

 通所してからの3か月間は、人との境界線を学ぶことに専念していました。自分の問題ではない事なのにドキドキしていたり、気になったりしている自分を何度も感じ、自分の境界線のおかしさを感じました。ステップ4、5をしている途中では、自分の欠点をうんざりするほど見て、もういい加減やめたいと感じるようになりました。

 そんな中で担当さんからの提案をなかなか実行できず、どうすれば行動に移せるのだろうと毎日苦しんでいました。ああでもないこうでもないと屁理屈ばかりが出てきてしまい、そんな中でBBとRDの過去のニュースレターを遡って読んでみました。ある先行く仲間の亡くなったお父様への埋め合わせをお母様になさった経験談が載っていて、それを読み号泣しました。「今後、屁理屈は言わない」そう思いました。同時にBBと仲間の言葉に答えがあると確信できた瞬間でした。

 他人軸から自分軸で考えるようになった私は、過去のトラウマに触れて今度は通所することができなくなりました。担当の方が主治医に同行受診してくださったり、毎日電話連絡で状況を確認してくださったりする等とても親身にしていただけ、通所は出来ない中でも自分の居場所がある安心感を持ち続けることができました。またそれまではそのようなことがあると自分の問題に目を向けるのではなく、人のお世話をすることで直視することを回避していた自分にも直面しました。そのように先延ばしや避けていた色々な事柄がこうやって負債の様に対処を求められているのだ、今出来る範囲の取り組みをしないといけないのだと痛感しました。

 RDに通所し一年強過ごしている今のこの時間は、過去のどの時間より自分のために使い、色々考え苦しみ行動しています。やりたくないことをやることは、とてもしんどいことも多いです。でも実はとても有意義でぜいたくな時間だとようやく理解できるようになりました。ステップは教わった通り「シンプルだけどイージーではない」ものだとしみじみ感じています。今までの古い考え方や根拠のない囚われや拘りが瞬時に出てきてしまい、頭の中をめぐるときがあります。そんな時には自分の振る舞いに驕りがなかったか、身勝手ではなかったか等、棚卸表の4列目過ちの本質は何だろうと考えられるようになりました。 これからも新しい生き方、ステップを使い仲間と一緒に今日一日を過ごしていきたいです。

自分の問題の本質

アルコール依存症 Kさん

 結局は「プライド」と「恐れ」の問題だったのだと思います。

 子供のころから自意識過剰で、内実が伴っていないのに、外面だけを取り繕うようなところがありました。常に「どうやったら楽ができるか?」ということしか考えていなかったような気がします。

 自分には読書や様々見聞することによって得た広範な「知識」があり、また「文才」があると思っていました。しかし、誰にも認めてもらえず、「自分には才能がない」という現実を突きつけられ、否定されるのが怖かったのだと思います。実業の世界を忌避していた私には国語教員の道しか残っていません。しかし、「生徒に教える」という仕事には大きな魅力を感じていましたし、実際、得意であり、好きでした。ですから自ら進んで教職に就いたのは偽らざる心情です。しかし就職した学校を私は快く思っていませんでした。「食うためとはいえなんでこんなレベルの低い学校に就職しなければならないのか!」と思う私は、もう不満で一杯だったと思います。同僚教員を下に見て、「こんなことも知らないのか!」とバカにしていました。自分一人で授業担当をしている時はよかったのですが、他教員と組んで授業担当をする場合などは自分勝手なやり方を押し付けていたと思います。そんな様子ですから、どんどん孤立していきました。そんな後ろ指を指されるような鼻つまみ者ですから、仕事の上でも閑職(と自分では思っていました)に追いやられます。授業を担当する教員から外され、司書教諭になるよう命じられました。「金のためにここにいるんだ!司書教諭のほうが楽そうだから儲けものだ!」とその時はうそぶいていましたが、教える仕事から外されたショックは大きかったと思います。もうすっかり腐ってしまい、ただ出勤するだけの毎日を送っていました。形だけ働いている体を装い、図書館に本を購入しても、他教員に購入を求められて買わざるを得なくなった本などは、憤懣やるかたないといった気持ちで、受け入れ作業もせずダンボール箱に入ったまま放置していました。

 学校の体制が変わり、仕事に細かくチェックが入るようになりました。買ったまま放置されている本の存在が「棚卸し」によって露見し、減俸・昇給停止の処分を受けます。そのころから格段に酒量が増えたと思います。毎月締め切りが来るようなレポートの提出を課せられ、酒を飲みながら残業して書いていた帰り、酔って階段から落ちて救急車で運ばれ、また処分となったときには、もう私は絶望していたと思います。酒がなければ生きていられなかった。遂にはアルコール依存症と診断され、入院した病院の主治医・看護師の方々の紹介でRDデイケアセンターに繋がりました。

 29回のグループ・セッションを繰り返して受講し、担当職員さんとの個人セッションでステップワークを重ねていくうちに、自分の問題の本質が見えてきました。「プライド」と「恐れ」はコインの裏表のように抜きがたく結びついたものであり、強すぎる両者ががんじがらめに私の心を縛り上げていること、また強い利己心が物事を正しく見る目さえも曇らせていることを思い知らされました。60年近く生きてきて、初めて自分の醜い姿を鏡に映して突きつけられたような気がします。プログラムの一環として家族に対する「埋め合わせ」もさせていただきました。家族との関係も少しは改善したような気がします。幸いにも今年の4月から非常勤講師として働かせていただけることになり、毎日、教える仕事ができる喜びを感じております。

 授業で中島敦の「山月記」を生徒とともに勉強しました。「臆病な自尊心」と「尊大な羞恥心」のために、切望する詩人になれず虎に変身してしまう男の話です。以前から私とそっくりだと思っていました。いったんは虎になってしまった私ですが、再び人間に戻るべく回復の道を一歩一歩歩いていきたいと思います。 読んでいただき、ありがとうございました。


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