ニューズレター vol.62 2026年8月号

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毎月発刊しているニューズレターの最新号を掲載しました。

こちらよりPDFで閲覧が可能です。修了生の体験談や施設の近況等、ぜひご一読ください。


体験談「かつてどのようで 何が起こり 今どのようか」 修了生 アダルト・チルドレン K・Mさん

幼い頃、人に優しく出来る頑張り屋だと褒められた。一生懸命に何かを頑張って成し遂げたことを褒められた時、私はそれが頑張った事の成果を褒められたのではなく、頑張った私を褒められたのだと思った。無性に嬉しかったし、自分を誇らしく感じた。そして、その称賛や褒め言葉はたいていが家の外からやってきた。家の中であっても、悪い子になるつもりはないのだけれど、人間だから、間違いも失敗も弱さもあって当然、家の中まで完璧にいい子だけでは居られない。叱られ正され直されて…今思うと家というのは、家の外で褒められる頑張りとそのパフォーマンスを仕込むための楽屋のようだったのかもしれない。

当然ながら世の中には頑張ってもどうにもならないことがある。受け入れられなかった私は、どうしてこんなに頑張っているのに!という癇癪を起こす。母はそんな私をその知恵と機転でいつも助けてくれた。自分でどうにもならないことを、母に尋ね従っていけば、事態は好転していったのだ。とはいえ、頑張っても出来ないものは出来ない。そんな時、私はもうひとつ別の視点で他人から承認を得ることを覚えた。「頑張ってるんだから仕方ないじゃない。良く頑張ってて偉いと思うよ」と。こうして、すっかりと私は「頑張ること」に嗜癖するようになった。方法や結果はともかく、頑張ってさえいれば、悪く言われないし、場合によっては褒められる。「頑張っているのだから仕方ない」は私の存在価値を脅かさない、それでいて、自分の責任から逃れるための言い訳をする道具となった。

のちに、スポンサーさんと出逢って話を聞いてもらった時、「頑張っても頑張らなくても、あなたそのものの価値は変わらない。頑張っていなくてもあなたの素敵なところは減らないし、なくならない。それでもやっぱり頑張りますか?」と尋ねられた。えっ?そうなの?頑張っても頑張らなくても私の価値は変わらない?だったら、頑張る必要ないじゃん!だって、頑張り続けることはしんどいのだ。続けてスポンサーさんは言った。「あなたの場合、頑張らない方がいいと思います。」普通の人にとって頑張ることは決して悪いことではない。だけど、頑張り過ぎる私は…それが病的。ひとり勝手に頑張って、頑張り過ぎてまわりを巻き込み、同じように頑張らない人に私はこんなに頑張っているのにあの人は!この人は!と怒り恨み、これまた勝手に不快感を抱いて、結局自
爆。そう、そんな私なら、たしかに、頑張らない方がいい。

自分がどう生きていきたいのか、どうしたいのかが分からないという問題に直面したのは中学や高校での進路選択を迫られた時のことだった。私の人生は私らしく生きていきたいと強く願うものの、いざ私らしくありたいと思うと自分のことが分からなくなった。同時に、私の頭の中は、自分で考えることより、母の考えや意見が占領している、さらに悪いことは、それに異を唱えることが出来なくなっている。自分の中に自分が居ない。私は空っぽ、心のど真ん中に穴が空いていると感じるようになった。情けなかった。そして、自分の大切なことだから、納得をして自信を持って人生選択をしたいのに、自分で決められない、そんな自分が恥ずかしかった。何とかしたいと思った。こうして私の自分探しという途方もない迷子の旅が始まった。

20 歳の頃、初めてAC という概念を知った。でも、私は認めたい気持ちと認めたくない気持ちで揺れ動いた。なぜなら、私は虐待をされて育ったわけでもないし、極度に過干渉な両親に育てられたわけでもない。さらに、家族の中に「依存症」と診断された者も居ないのだから…私はAC ではないと。にもかからず、AC の「問題」を読んだ時、それは自分のことを説明していて、AC 特有の生きづらさは私そのもの。とても苦しかった。だから、その苦しい生きづらさの要因が家庭や育つ過程の身近な人との関わりの中にあったと知り、自分がAC だと自認を深めるにつれ、逆に極端に親を責める気持ちが強く出た。私が苦しいのはあんたのせいだ!子どもの時、こうしてくれなかったからだ!もしこうしてくれていたら私はこんなに苦しむことは無かったのに!と。両親との関係は悪化した。本当は大好きで育ててくれたことに感謝もしているし、愛されたいと強く願っている…にもかかわらず。体調を崩す日々が続き、そしてある日、気がついた。親や家庭がどうであったとて、それは親や家族がその態度を正すとか、その過去を謝ってくれるとか、AC の回復プログラムはそういうことではない。過去を振り返るのは、この私が私を理解するための視点でしかないのだと。

なるほど、だったら簡単なこと。今度は私が私を大切にして生きていけばよいのだから。それまで気づかずに来たけれど、私の中にもうひとりの素直な私がいるということに気がついていた。誰かの気持ちや世間でのこうあるべきを体現する私ではない、私自身の素直な気持ちを感じとる純粋無垢な子どもの私が心の中にいるではないか。迷った時はそれを信じていけば良いのだと。

それから、私は年齢の上で大人になるものの、そこからさらに25 年、AC の苦しさから逃れられない自分を生きることになる。なぜなら、人生の初期の頃、育つ中で濃密に関わった人間関係の中で身につけた術のままに生きていたから。その考え方と行動を変える方法を知らなかったから。素直な自分、ありのままの大切な私を感じ、気づいてはいても、それを社会や人間関係の中でどうやって表現したり、大切にしたりすれば良いのかを知らなかった。

数年前、お付き合いしていた彼とのお別れをきっかけに、どうにもならなくなった。些細なことで感情がささくれる。再び、これから先をどう生きていけばいいのか分からない危機が来ていた。いったい何度目の人生挫折だっただろう。数えきれないほどの鬱を繰り返してきた。何度転んでも、いつかきっとこの生きづらさから解放されて幸せになれる!と希望をつないできた。負けず嫌いで頑張り屋、執着心が強く、自分で自分のことをあきらめさえしなければ、その逆境ですら力になる時が来ると信じていた。落ち込む度に、行き(生き)詰まる度に、時間と気力と体力とを駆使して何とか自分を建て直してきた。だけれど、今回ばかりはその信じる綱が切れていた。あと何回こんなことを続けるのか。たとえ今までと同じように建て直しをしたとしても、またこうして転ぶ時がく
る…と考えたら、ほとほと精も根も尽きたと思った。立ち上がる気力が抜け、私は今まで通りの回復を信じる力を失ったのだ。無力を認めざるを得ない底つきだった。

あれから1年半。12 ステップは、ものの見方を変化させてくれた。足りないことやないことを数えればキリがなく足りないし、不安でならない。だが、在るものを数えていけば、たくさんのものが与えられている。とてもシンプルではあるが、単に頭で理解したのではなく、実生活の中で常に応用の出来る感覚、実感を伴った気づきとして、腹に落ちた。そして、何より不思議なことは、あんなにも空っぽで干からびていた私の心の中の穴が、満たされていると感じられること。ハイヤーパワーは私にはないパワーを持っていて、それは愛のエネルギーそのものだ。相変わらず、心の穴が無くなるわけではないのだけれど、さみしさという風が吹き込んできて嵐のように荒れ狂う
ことがなくなった。飢えるような欲に惑わされることも少なくなった。

こうなるまでに、私はたくさんの方々から溢れんばかりの愛と共感、経験と力を抱えきれないほどに貰い続けてきた。自助を含めて共に励む仲間、スタッフさん方、そして社会福祉サービス諸々に支えられながら、程よく頑張れる私がいる。ひとり勝手に希望を描き、ひとり意固地に頑張るだけでは出来なかったことが、今ここで叶えられている。そして少しずつだけれど、自分のことも説明が出来るようになってきた。私が本当に欲しかったもの、それはこの落ち着きと心の平穏、穏やかさだったのだ。感謝の気持ちでいっぱいだ。



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